小室みつ子 / 映画とかドラマとか戯言など

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 ズートピアについてのおもしろい考察

 私自身はこの映画を見ていません。去年の映画なので今更なのですが…。ふと見かけたコラムが非常におもしろかったので、リンクを貼ります。

  「ズートピアに隠された秘密」
  http://ironna.jp/theme/337


 ここ何年も、アメリカ社会の中の「政治的正しさ」ポリティカリー・コレクトネスが映画やドラマにも厳しく浸透しています。良い部分もあることはありますが、なんとなく息苦しさを感じることもあります。映画の配役で、必ず気にする人種的配分、性的配分など、本当に細やかに気を遣って作られているものばかり。その中で、差別される側に中にも差別があることなど、非常に冷徹な視点で、日本では避けて通るような問題を題材にする勇気あるドラマもあります。「CSI ラスベガス」などは、そういう普段全く触れることのない深い部分での社会の歪みを指摘して、何度も驚かされました。

 ポリティカリー・コレクトは、差別される側を救うためにあるはずなのに、逆に、それゆえに差別される側が余計に生きにくい状況になる場合もあります。ネットの言説を読み歩いていて、「ポリコレ」と訳して書く人たちがいました。「ポリコレ」をある種の教義のようにうんざりしている人たちもいるようです。移民社会のアメリカだからこそ、社会構造は日本人には想像し難いほどの複雑な構造、思惑、現実があります。

 最近見ている「The Newsroom」でも、その複雑怪奇な社会の中で、バランスを保ち、何が公正であるか、特にメディアはどうあればよいのか、試行錯誤を見せてくれます。右だろうが左だろうが驚くほどきつい物言いで批判をします。そして批判した後にその報いも受けます。全方向から憎まれます。でも、常に「この報道は公正であるかどうか」「自分の考えはバランスを欠いていないかどうか」という自問自答と苦しみがある。こういう自問自答が、個々にもあれば、世の中は少しずつ良くなるのではないかと思いたいですが…。実際は、自分の掲げる「正義」や「正しさ」に固執する傾向が多い。

 そういう気持ちでいた私には、ズートピアに関する考察が非常に興味深いものになりました。隠喩で何かを伝えたい人たちがたくさんいるのではないかと…改めて感じました。たとえば、インドでは性的な表現はご法度、だから、インド映画は代わりに踊りと歌を多用します。映画に出せない性的な部分、恋愛の喜びなど、全て踊りで表す。ホラーだろうが最後は役者さん全員が出てきて踊ります。とてもとても楽しそうに。見ている私までにっこりしていまいます。彼らが表せない部分を思い切り踊りで昇華している。そしてひとりひとりが実に楽しそう…。

 言論や表現の自由を保障されたはずの国、アメリカにも(日本にも)こういうタブーはたくさんあります。タブーを犯せば、もしかしたら、差別者の烙印を押されるかもしれない。それは社会的な死を意味するほど重大なこと。表現者は萎縮します。当然ながら。でも、その制約の中で、暗喩という方法で、なんらかのメッセージを伝える。密かに「あなたたちが思う常識は、果たして常識なのだろうか」と、問いかけている。表現者は制約があってこそ余計に才能を発揮できる場合があります。


 Togetter で同じような「ズートピア」に関しての考察を見つけました。これは、ところどころ、リベラリズムへの露骨な批判や罵倒が入っているので憤慨される方もいらっしゃるかと思います…。そこは飛ばして本質のみ受取って考えてもらえるといいなあと願います。

 ●Togetter ズートピアに関する興味深い考察。肉食獣は本当に強者なのか?

 ●Togetter ディズニーがズートピアの削除シーンを公開。→「テーマが重すぎる」「肉食獣に電気ショックを与える首輪がついていたなんて...」