小室みつ子 / 映画とかドラマとか戯言など

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 『レディ・イン・ザ・ウォーター』

★★★★☆

レディ・イン・ザ・ウォーター 特別版 [DVD]

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【微妙にネタばれしてるかも】


 M.ナイト・シャマラン監督の新作ということで、とても楽しみにして夫と映画館に向かいました。少数派だとは思うけれど、私はシャマラン作品が大好きです。彼が描くものにこめられた一貫したテーマに共鳴し、あの暗くて独特の空気を醸し出す映像に魅せられ続けています。今回もとてもいい気持ちで見終わることができました。


 『ヴィレッジ』『サイン』『アンブレイカブル』『シックス・センス』、すべて好きです。でも…世間でのシャマラン監督への評価はいつも真っ二つ。『シックス・センス』が大ヒットしたことはすばらしいのだけれど、シャマラン監督にとってはもしかしたら不運なことだったのかもしれないと思ったりします。それ以降、最後のどんでん返しがメインみたいに喧伝されることになってしまった。シャマランが描く物語は決してどんでん返しがメインではないのに…(『シックス・センス』の落ちを事前に知って見ても泣けた。むしろオチを知って2度目に見たほうがひとつひとつのシーンが悲しくてすばらしく映る)。興行上の宣伝がそれを強調しすぎてしまったと思います。


 『サイン』のアレ見てトンデモ映画と呆れた人たちはこの新作は見ないだろうけれど。『レディ・イン・ザ・ウォーター』、とてもよかったです。何度も笑って、最後に泣きました。テーマは『サイン』にとても似ている。こじんまりとしたアパートに住む奇妙で愛らしい住人たちが、プールから出てきたナーフ(水の精)と接することによって、自分自身の存在意義や役割を見つけていく。つらい過去を背負って人生を諦めているアパートの管理人もまた、ナーフと出会うことで自分を再び見つけ出すことになる。散りばめられたユーモアも『サイン』と似ていて笑えます。


 眠る前に子供に聞かせてあげる御伽噺という形態で、シャマラン監督はまた私を癒してくれました。自分が生きている意味をみつけられない人たち、乗り越えることができない悲しみに出会って閉じこもる人たち、誰にも理解されない孤独と向かい合う人たち、純でもあり、優しくもあり、たまには悪意も持つ弱い人間たちが、ある出来事と遭遇して自己の役割を与えられて救われる(救われない場合もあるけれど)。シャマラン映画のテーマは「自己再生」と「癒し」と「(特定の宗教ではなく一般的な)信仰」だと思います。


 ただ、今回の『レディ・イン・ザ・ウォーター』は、映画としては『サイン』以上に真っ二つに評価が割れそうだなと思う。「なにこれ」「つまらない」で終わる人たちがたくさんいると思う。それもシャマラン映画の特徴ではあるのだけど…。すでに「シャマランはひたすら下降している」と、普段の行動まであげつらってシャマランを傲慢と言い放つ評論家もいるほど。見る人によっては、シャマラン映画は狭い世界の陳腐で幼稚な自慰的ファンタジーにしか見えない。多くの人たちは出てくるクリーチャーの安っぽさを笑う。シャマランが何故そういう表現を選んだかという意図を解さない。クリーチャーはメタファーであり象徴として出てくるだけなのに。


 『サイン』よりさらに寓話的要素を持つこの映画。今までと違うのは、シャマラン監督が自ら重要な人物を演じているところ。そして批評家に対しての悪意が暗喩というには露骨なほど込められている。自分が表現していること、伝えたいことが全く通じないもどかしさがいっぱい出てました。でも「伝わる人には伝わっている。自分がいつか死んだ後にでも自分の作品を認めてくれる人が出るかもね」って感じでシャマランの自己主張が入ってるのかな…と思わせる部分もあり。様々な暗喩にシャマランというひとりの映画監督の内面が時に生々しく出てきたりするので、見方によったらとても個人的な映画(悪く言えば自慰映画)なのかなと思う。


 私も夫もシャマラン好きなので、最初から最後まで見入って、同じところで笑い同じところで泣いてました。でも、この御伽噺設定は、冒頭で入り込めない人にとっては苦痛でしょうね。見始めて数十分で、「あ、この映画、サイン以上に叩かれそう…」と思いましたもの。あまりにリアリティがないから。実際、何人もの人たちが途中で席を立っていたようです(夫の証言。私は映画に夢中で気づかなかった)。『サイン』のあのクリーチャー見てげんなりした人たちは、この映画を見ないほうがいい。いや、見ないでしょうけど。


 『サイン』は聖書の中の一節にある物語のような形態で描かれた寓話。ひとりの牧師が妻を失うと共に信仰を失って、また信仰を取り戻す話。「ある日地球にこんな怖いことが起こったけれど、人々は神さまからのサインを受け取って、こんなふうに戦い、地球を守りました。まる」みたいな語り口。だからこそあのクリーチャーは誰もが思い浮かべるレトロで安っぽいヴィジュアルで出てくる。


『レディ・イン〜』は伝承されたフォークロアの形を借りた寓話。やはり安っぽいCG処理で動く狼のようなクリーチャーが出てきます。どちらも「物語」であり「ファンタジー」だからこそ、子供が思い描くような簡単な記号みたいなクリーチャーであるべきで、あそこだけクリーチャーがリアルだったら、物語全体が壊れてしまう。と、私は思うし、シャマラン自身も意図してそう描いていると思います。そこで御伽噺から覚めてしまう人には、すべてが陳腐に見えて物語に入ってはいけなくなる…。


 そういう、バカバカしい設定や映像が『サイン』よりさらに多いこの映画…。でも「なにこれ」と終わってしまうのは惜しい気がします。御伽噺以上に、舞台設定、登場人物にシャマランの気持ちが込められ、様々な暗喩が散りばめられていて、深読みすればいくらでも深読みできるから、そういう楽しみ方もできる。まあ、そんな意図など「映画」には必要ないのかもしれないですけど…。


 アパートは劇場で、住人たちは物語を作る登場人物そのまま、プールから出てくる水の精は、その名前「ストーリー」通り、物語そのもの。水の精は住人たちにそれぞれの役割があることを知っているけれど、誰がどんな役割かはわからない。「治癒者」「記号学者」「守護者」「証人」「ギルド(職人)」「預言者」「統治者」…。水の精を助けるために、それらの役割を持っているはずの人々を探す管理人。


 迷う管理人の質問に、アパートにやってきたばかりの唯一の部外者、映画評論家が自信満々で解釈を述べる。彼の言う通りに選ばれた人たちは、実は役割が間違っていた。そして評論家だけがクリーチャーの餌食になる。その死に際でさえ、自分の運命を間違って解釈している評論家の独白が笑えます。しかし、そういうシーンやたまに出てくる台詞などに、シャマラン監督の「映画評論家」全般に対する憎悪が丸出しで伝わるので、うーん、戦ってるなー、だけどいいのかなあ、こんな憎まれっ子になって……と心配してしまうほど。


 まあ、映画に込められた監督の個人的なメッセージは置いておいて、素直に御伽噺として見ても、私にとってはやはり癒しの映画です。『シックス・センス』でも、最後の最後、車の中で男の子が見たことをお母さんに伝え、やっとお母さんが子供の役割を理解し、子供を媒介して死んだ自分の母親とコンタクトする場面がありますが、何度見ても私はあそこで号泣してしまいます…。あの場面に似たものが、どの映画にも必ずある。悲しみに包まれた人たちにもう一度生きている意味を見出させてくれる、優しいテーマばかり。


 たぶんこの映画は興行的にはうまくはいかないかもしれないけれど、私はすでにシャマランの次の作品が見たくてたまらない。どうかずっと彼に映画を作らせてくださいと願ってしまう。今回の作品はたぶん映画としては細やかではないかもしれない…。あまりにシャマランの個人的思い入れが出てしまっているので、物語に深みは決してないから。次は『ヴィレッジ』みたいに、映画としてドキドキさせてくれる作品を作ってくれるといいなと思います。


 主役の管理人(ポール・ジアマッティ)がとてもよかった。水の精は、『ヴィレッジ』で主役だった、ブライス・ダラス・ハワード。実のお父さん(今は大監督のロン・ハワード)の俳優時代の頃そっくりのプラチナブロンドの髪とまつ毛が妖精にぴったりでした。そして、アパートに住む奇妙な住人たち、アジア系、プエルトリカン系、インド系と様々な人種がいて、それぞれのキャラ設定がおもしろくて笑えます。終わった後、なんというかほんわかと優しい気持ちになれる。なんか救われたような気がする。…宗教一般を理解できない上に拒否感がある私だけれど、もしかしたら、「救済」とか「信仰」とはこういう気持ちのことを言うのだろうか……とふと思ったりしました。